一畳日記

もうひとつの人間観

ひきこもりの姉は死にました

私の姉は36歳で亡くなった。実家で静かにひとりで。
最初に発見したのは母だった。呼んでも返事がなく、部屋を覗いたらベッドの上で冷たくなっていたそうだ。兄弟の中で私が最初に母からの電話を受けた。3年前の金曜日、午後22時頃、部屋の明かりを暗くしてベッドへ横になろうとした時に電話が鳴った。
「もしもし?」
「お姉ちゃんが死んだんよ」
あの時の母の声はいまでも忘れられない。切迫した泣き声。
「そう」
と口にした時にはもう涙があふれていた。
「ほかの子にも伝えてあげて、はやく、そうじゃないとあの子が」(かわいそうだ と聞こえた)
「わかった、わかったよ」
血の気が引くってこういう事なんだと思った。電話を切って暫く手の震えが止まらなかった。ベッドの上で丸くなって震えが収まるのを待ち、最初に同じ都内に住む兄に電話をかけた。
「はい」
「あのさ、お姉ちゃんが死んだって、電話が」
「えー……」
「うん、だからね、早く帰らないと。多分一緒に帰った方がいいと思う、飛行機とか」
「あ、ああ、そうだね、こっちで取るよ、また連絡します」
いつも落ち着いていて段取りの良い兄だが、その時は飛行機の話ではハッとしたような声を出していた。動転して気が回らなかったのがうかがえた。他の兄弟にも電話をかけてひと段落した時腰に激痛が走った。突然のストレスが腰に現れたのだ。

「なぜ死んだのか」という話にならなかったのは、姉の人生は何年も前からギリギリだったからだ。私が物心ついた頃からおかしかった。愛犬をほうきで叩いたり、一回りも離れた妹にいつも無意味に攻撃的な態度だったり、部屋が異常なまでに汚かったり、虚言癖、過食嘔吐アルコール依存症自傷行為、盗癖、メンヘラビンゴ全てひっかかるくらいギリギリな人だった。

そんな人だったから私は憎んでいた。何度も親を騙して傷つける姉を、何度も頭の中で殺したし心から早く死ねば良いと思っていた。このままじゃ母が憔悴して姉に殺されると思っていた。
ただどんなに憎んでいても涙は止まらなかった。亡くなった顔を見てもまた涙が出てきた。救えなかった無力感と、憐みからくる涙だと思っている。もっと幸せに生きることは出来なかったのだろうかと、今でも思う。

生き返って欲しいとは思わない。人を殺すような人間ではなかったと思うけど、幸せになろうとせず(できず)、重く冷たい存在は、間違いなく人を傷つけていただろうし、変わらない限り世に出すのが怖かったからだ。私はどれだけ憎んでいても結局は殺せなかったと思うし思いたいが、それでも他人様に迷惑をかけず、亡くなったことについては正直心底ほっとした。自分の始末をつけてくれたな、と。

だから登戸の事件も、事務次官長男の事件も、被害者・遺族は言うまでもないが、加害者家族を思うと一層心が苦しくなる。
明るみになっていないだけで同じような境遇の人は沢山いるはずだ。

松本人志氏の”不良品”という言葉が話題になったが、どうにもできないほどに心が壊れている人は一定数いる。家族にマスメディアの矛先が向くことは避けられないが、家族に責任を押し付けることで良くない連鎖を生むこともある。親であること、子であることや、血の繋がりに甘えて(責任を感じて)しまいがちだが、血の繋がりや愛情で解決できない場合もあることも理解して欲しい。そんな理解が広まってほしい。

私のような精神医学の素養のない人間ができることは、せいぜい自分の子どもを愛し、理解し、他人に親切にすることだ。時には難しいかもしれないけれど、他人からの優しさでこの世は捨てたもんじゃないと思えることもある。太田光氏がピカソに心を取り戻してもらったように、才ある人が自由に打ち込める世界にもなってほしい。ひとりで死ねなんて、自分には関係ない事だからと切り離していては、いつまでも繰り返されるのだと気づきべきである。