一畳日記

もうひとつの人間観

i was born

確か 家族を認識して間もない頃だ。

或る日の宵。兄たちとリビングでくつろいでいると 台所から食事を作り終えた母が寝室へあるいていった。物憂げに ゆっくりと。

母はいつも明朗だった。テレビの画面を横目に私は母の後姿から眼を離せなかった。目線を下にした母の 静かなあゆみに つかみどころのない胸のざわめきを覚え 母でない誰かを見たような不思議な感覚に打たれていた。

少女の感性は過敏であった。その時 私は<母>が<母以外の顔をもつ>ことを ふと諒解した。私はひとりで寝室へ入った。

___ (やっぱり 泣いてる) ___
私は静かに尋ねた。
___ 大丈夫? ___
 その時 どんな気持ちで 母は娘の言葉を聞いたか。
私の表情が単に無垢として母の顔にうつり得たか。それを察するには 私はまだ余りに幼なかった。私にとってこの事は家族の変化の発見に過ぎなかったのだから。

  二十年後の春先 姉の命日、母から連絡がきた。

___ 二月の半ばから辛いことがあって、ずっとそれを引きずっていて、あなたや亡くなったあの子のことを思って、楽しく過ごしているのに 生きるのが辛くなっていたよ。けれど、色々なことを考えるうちに、苦しみがあるのが当たり前と思えるようになったよ。辛いことがあると、この辛さをなんとか回避できなかったかとか、何を学ぶ出来事だったのかとか、深く考えて辛さが増してしまうけど、辛いのが当たり前で それがあるから道を求めるのだと改めて思ったよ。その辛さのおかげで何か真実に近づければ 悲しみにも意味があるよね。___

 母は続けた。

___今は失敗だらけの人生でも、命あれば子どもたちを愛することも見守ることもできるから、それだけでもありがたいと思ってる。また、来年のあの子命日まで 私が心を通わせた仲間で先に光になった人たちに見守れながら、私の役目を心を込めて果たそうと思ってる。___

 母の話のそれからあと 私は言葉を返せていない。ただひとつ痛みのように切なく 私の脳裡に灼きついたものがあった。

___明朗な笑顔と共生する あの宵の姿___

生まれること 母になること 生きていくことに 真っ直ぐな母の道を 残していきたい。





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吉野弘さんのi was born をおかりして。
母よいつもありがとう。今年はamazonでポチった焼酎を嗜んでおくれ。

今週のお題「母の日」